- シングルベース+ゲヤ(単体のベースにいくつかのゲヤがついたもの)
- ダブルベース+ゲヤ(対に置かれたベースをゲヤでつないだもの)
- ジョイントベース+ゲヤ(ベースを複合させてゲヤをつけたもの)
前回は「現代町家の起点」の話でした。
木造にたいしてイームズを、町家にたいしてプロダクトを、一見したところ正反対のものを置いてみる、というのがその起点です。
そのせいか、ぼくにはいま「町家」も「木造」もなんだか古い着物を脱ぎ去ったような、とても新鮮なものに思えているのですが、ではその起点は町並みや風景とどんなふうに関係してくるのか。
あのあと、原稿はこんなふうに続いてゆきます。
イームズと町家、町家とプロダクト、なにやらヘンな取り合わせですけれど、物ごとが動くときというのはこういうものなのかもしれません。私の案は名古屋市近郊の犬山でさっそく実施されることになり、現代町家の第一号「尾張町家」が小池さんと出会って一年も経たないうちに誕生してしまいました。
その後、現代町家は思いがけない広がりを見せます。小池さんのプログラムでは完成した尾張町家の現場で「塾」を開くことになっていました。その塾に50人を超える参加者が集まったのです。建物を実際に見ながらその場で尾張町家のコスト、設計法、パーツ、性能が検討され、そこでの議論から現代町家の運動が博多、大分、広島、高松と、各地に飛び火していきました。
ところでこの塾に参加した工務店の皆さんの目に、尾張町家という建物はどう映ったのか。でき上がったのはベースとゲヤで構成された箱に片流れの屋根が乗っているだけの、シンプルな家です。「町家をイメージさせる」というよりも、むしろ「工務店が取り組むプロダクト住宅としてイケルんじゃないか」というのが大方の意見でした。おそらくコンパクトなエコカーみたいな家として受けとめられたのでしょう(総額で2千万くらいの価格設定でした)。
さて、これを地域ごとにどんな町家に育てていくべきか、塾ではいろんな議論が交わされました。ただし現代町家は理念先行というより実戦型ですから、先に答えを出すのではなく、つくりながら答えを見つけていかなくてはなりません。すでに高松では讃岐町家が、大分では府内町家が始まっています。同じ設計法のなかから地域ごとに異なる町家を生むにはどうするか、各地域を飛び回るうちに、求める答えはどうも「建築の外側」にありそうだと私は考えるようになりました。
きっかけは大分で「湯布珪藻土」を見たことです。それは大分の工務店が現代町家を実施するために見つけてきた淡水産の珪藻土で、湯布地域の湖跡から掘り出すらしいのですが、輝度が高く、深みのある白い色をしていました。その微妙に変化する白い固まりを眺めていて、ぼんやりと思ったのです。地域性というのはかたちではなくて、地域ごとに変化する素材の色なんじゃないか。
「町家」を私は建築の論理で、設計のことばだけで考えていました。でも町家を成立させていたのは、当然のことながら建築を包んで広がる外側の世界、素材と、それを扱う職方や生産者がつくる広大な世の中なのでした。
いま湯布珪藻土は製品化を進めている段階ですが、そこには産地のひとも施行を担う職方も参加しています。同じことが島根県の出雲市ではスギの若齢木を重ね梁にするかたちで進行しています。
これらはみな、小池さんが「地域の自生種を探してそれを育てる」ことを各地の塾で提案したことから生まれたものです。
イームズと町家を強引につなげた結果がこういう展開になるとは夢にも思いませんでした。当初、「町家」は私にとって単に設計のためのことばだったのです。でも各地の工務店と協同するうちに、町家という考え方が協同のための「決めごと」に変化していき、たとえば「地域の自生種を探し出す」ことや「ベースとゲヤから生まれる空地を町並みに生かす」という、現代町家の基本ルールに生まれ変わりました。おそらくそうなった背景には、スタンダードな家というのは単品ではなくて、町のつくる風景との関係抜きには成立しないという思いがみんなにあって、それが協同を進めていくなかで育ったためなのだと思います。
ところで言い忘れましたが、各地で現代町家の塾を連続的に開いていくなかで、大きな出来事がふたつ起きました。ひとつは「博多現代町家」が2009年度のグッドデザイン賞を受けたこと、もうひとつは現代町家の外構に田瀬理夫さんの参加を得たことです。
田瀬さんは都市のまっただ中のビルを森に変貌させた「アクロス福岡」の仕事で有名ですが、その本当の狙いは在来自生植物の復活にあります。現代町家ではそれが「一坪里山」という提案につながりました。2メートル平方程度のカセット型の庭を個々の家に組み込んでそこに地域の在来植物を育てようというもので、これはいま家と町並みをつなぐための現代町家の基本ルールのひとつになっています。
うーん、我ながら、なんか紋切り型ですね。お恥ずかしいかぎりですが、でもぼくがここで言いたがっているのはこういうことです。
つまり「一軒の家をつくることが同時にそのまま家のソトをつくることにつながる」、そういうつくり方をしたい。
そのためにいま現代町家で試していることを、ぼくは上の文中でふたつ上げています。ひとつは「ベースとゲヤの配置から生まれる空地を町並みに生かすこと」、もうひとつは「地域の自生植物を育てる小さな庭(一坪里山)をもつこと」。
ベース(母屋)とゲヤ(下屋)のずれから生まれる凹み、そしてカセットタイプの草庭、どちらも家のウチとソトとの境界面に生まれる小さな自然を指しています。その小さな自然を、床や壁と同等の「建築的な部品」として家に盛り込んだらどうかとぼくは言っているのですが、このやり方の正否は実例で検証するしかありません。
いま現代町家では、家のウチとソトの境界面に「軒先から吊り下げるデッキ」や「大きな木の窓」を置いて、小さな自然の建築化に励んでいます。これから先、このファイテイング日誌でもいくつかの例をみなさんに見ていただくつもりですけれど、ただ、これまでのトライアルでわかってきたのは、そういった「小さな自然」に対してもまた「半製品化」というプロダクトの考え方が有効らしい、ということです。
誰かが半ばつくり置きしたものを次々にリレーしていくのがよい。オリジナリテイー、個人の独創性というのはこの場合かえっておもしろくないのではないか。論証抜きに、いまはそういっておきましょう。
そういえば、家のウチとソトについて、とても美しい言葉があったのを思い出しました。「よきことはみな外から来る」というのです。
「よきこと」ではなくて「よきもの」だったかもしれません。正確な言葉使いがどうだったか、もうよく思い出せないのですが、これは建築家の伊礼智さんの発言で、たしか屏風(ヒンプン)という沖縄地方特有の「目隠しであり、魔よけであり、風よけでもある」低い塀についての言葉でした。
なぜ屏風(ひんぷん)を自分は使うか。ウロ覚えですが伊礼さんはこんなことを言っていたと思います。
‥‥‥沖縄地方の古い言い伝えに「よきことはみな外から来る」という言葉があること、自分はその言葉に惹かれること、外の世界にたいして、拒否ばかりでもなく受け入れるだけでもなく、「緩やかに外と繋がったり、やんわり拒絶しながら」、外を招き入れるようにして住宅をつくりたい‥‥‥。(ウロ覚えですので間違えていたらゴメンなさい)
ぼくはこの言葉に賛成です。住宅はソトを招き入れる建築的仕掛けをもういちど一からつくり直すべきだと思います。
考えてみればこの40年間、建築家の家にたいする努力は「ウチ向き」でした。40年前といえば1970年代のことで、そのころ「都市住宅」という言葉が日本に初めて出現するのですが、それらの住宅は「外側はみな汚い」という考え方に貫かれています。ウチ側に私的な世界を築くことに努力が注がれました。でもそのことがソトを置き去りにしてしまったことに、いまようやくぼくらは気づき始めています。
「置き去りにした」とはつまり、家のウチ側には劇的なプライベート空間が生まれたけれど、家のソト側のほうは、道路とか公園とか、一気に抽象的で手の届かないパブリック空間にされて意識から外れてしまったということです。
おそらく「よきことはみな外から来る」という言葉が教えているのは、プライベートとパブリックの中間領域に、「よきこと」を受け止めるための、もうひとつ別のタイプの空間がある、ということでしょう。
家のウチとソトとの境界面に発生するこの柔らかい泡のような空間には、まだ呼び名がありません。それを何と呼べばよいのか?
たとえばスイスの建築家ピーター・ズントーはそれをとてもシンプルに「庭」と呼んでいます。
そのことをぼくはある動画サイトに投稿された彼の講演会記録を見て知ったのですが、長くなりますので、この話しはまた次回に。